2009年06月19日

酸化クロム(さんかクロム、chromium oxide)

酸化クロム(さんかクロム、chromium oxide)はクロムの酸化物。クロムの酸化数に応じて、酸化クロム(II)、酸化クロム(III)、酸化クロム(IV)、酸化クロム(VI) が存在する。また、混合酸化物、過酸化物も知られている。

クロムの酸化還元電位は Cr(+3) が最も安定であり、酸化物も酸化クロム(III) が最も安定である。酸化クロム(IV)、酸化クロム(VI) は酸化剤として用いられる。

組成式 CrO。黒色の粉末で、水に不溶。

性質 [編集]
化学的には不安定で加温により Cr と Cr2O3 に不均化する。
空気中で酸化されて Cr2O3 となる。
希硫酸、希硝酸には溶けない。
塩酸に溶け、水素を発生させて青色溶液を生ずる。

製法 [編集]
クロムアマルガムを空気あるいは硝酸と作用させて酸化させる。
赤熱した酸化クロム(III) に水素あるいはエタノールを通じる。
塩化クロム(II) CrCl2 と炭酸ナトリウム Na2CO3 を混合し、加熱する。
クロムカルボニルを熱分解する。

酸化クロム(III)
組成式 Cr2O3。緑色の固体で、水に不溶。

物理的性質 [編集]
コランダム (α-Al2O3) 型構造、六方晶系
融点 2435 °C、沸点 4000 °C
比重 5.21 (20 °C)
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

化学的性質 [編集]
きわめて安定。
酸、アルカリに不溶。
臭素酸アルカリ水溶液と熱することで溶解する。

利用 [編集]
顔料として黒板や絵具(オキサイドグリーン・オキサイド・オブ・クロミウム)などに用いられる。
研磨剤
有機反応の触媒
単結晶は半導体になる。

酸化クロム(IV) [編集]
組成式 CrO2。黒色の粉末で、水に不溶。

物理的性質 [編集]
正方晶系、ルチル型構造。
強磁性を示す。

利用 [編集]
磁気テープ用磁性体
三酸化クロム(さんさんかクロム)、無水クロム酸(むすいクロムさん)とも呼ばれる。組成式 CrO3。赤色の結晶。

物理的性質 [編集]
斜方晶系、針状結晶。
融点 196 °C(分解)。
比重 2.629 (14 °C)

化学的性質 [編集]
水に溶けてクロム酸と二クロム酸になる。
潮解性が強い。
250 °C で分解して酸素 O2 を発生させ、Cr2O3 となる。

利用 [編集]
有機反応の酸化剤。詳細は クロム酸酸化 を参照。
ガラスの洗浄。

毒性 [編集]
きわめて毒性が強い。半数致死用量 (LD50) は 80 mg/kg (ラット、経口)、127 mg/kg (マウス、経口)。

2009年06月01日

向精神薬

向精神薬(こうせいしんやく、Psychoactive drug)は、広義には、中枢神経系に作用し、生物の精神活動に何らかの影響を与える薬物の総称である。狭義には、麻薬及び向精神薬取締法で個別に指定された物質である。

脳内で本来はたらいている神経伝達物質をリガンド、リガンドのかわりに脳内で作用する薬物をアゴニスト、リガンドのはたらきを弱める薬物をアンタゴニストという。

精神治療薬の中に副作用として幻覚や錯乱などの影響をおこすものがあり、反対に、麻薬に指定された薬物の中にも、覚醒作用や鎮痛・鎮静作用などの作用を持つために治療に用いられるものが存在する。例えば、モルヒネは強い依存性を持つが、同時に強力な鎮痛作用が存在するため、重度の癌患者の疼痛除去に用いられている。また、メタンフェタミンのように、日本では覚せい剤取締法で法律で規制されているが、北アメリカでは治療薬として用いられ、規制の状況が異なる薬物もある。医療目的で用いられる治療薬も法律で規制された薬物も、共に薬物乱用が問題になることがある。なお、コーヒーや茶などに含まれるカフェインは、向精神作用をもつ物質としては世界中でもっとも広く摂取されているものである。

精神疾患によっては、脳の中に薬物が作用し、その症状を顕著に改善する。ストレスや遺伝などの様々な原因によって脳内の神経伝達物質の状況が変化するため、その類似の物質である薬物を摂取することによって症状が改善されるということである。反対に薬物が効きにくいといわれる疾患には拒食症、高所恐怖症、閉所恐怖症などがある[1]。

軽い不安は脳内物質のセロトニン、強い不安は脳内物質のGABAの不足が関連しており[2]、脳内物質として作用する薬物を摂取することで症状を抑える。ベンゾジアゼピン系の薬物はGABA受容体に作用することで不安や興奮を抑える。強迫性障害のような持続的な不安には、GABA受容体ではなく、セロトニン受容体に作用する抗うつ薬が有効である。

精神安定剤(トランキライザー)
大きくメジャートランキライザーとマイナートランキライザーに分けられる。
抗精神病薬(メジャートランキライザー)
主に統合失調症による幻覚や妄想といった症状を抑えるために処方される。また強力な睡眠薬であるベゲタミンもここに分類される。統合失調症に有効な抗精神病薬は、ドーパミンD2受容体に作用し脳内物質のドーパミンの作用を抑える、つまりドーパミンのアンタゴニストである。
抗不安薬(マイナートランキライザー)
不安や緊張を沈める作用があり、睡眠薬としても利用される。ベンゾジアゼピン系が多い。
抗うつ薬
うつ病や強迫性障害、社会不安障害に処方される。主要な作用は、セロトニンが少なくなっている状態に対してセロトニンを再利用する作用をもたらすことである。第1世代・第2世代の抗うつ薬である三環系抗うつ薬、第2世代の四環系抗うつ薬、第3世代の選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)、第4世代のセロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI)がある。新しいモノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)であるRIMA(Reversible inhibitors of monoamine oxidase type-A)という新薬もある。
抗躁薬
気分が高まった躁状態を改善するための治療薬である。
中枢神経刺激薬
メチルフェニデート(リタリン)やアンフェタミンのように、突然強い眠気を催すナルコレプシーや注意欠陥・多動性障害(ADHD)の治療薬として処方される。メチルフェニデートやアンフェタミンは、ドーパミンの受容体に結合する。
睡眠導入剤
不眠症に対し、睡眠を誘導する治療薬として用いられる。 ベンゾジアゼピン系が多い。
鎮静催眠薬
バルビタールなど、強い催眠作用のある薬物で、睡眠薬として用いられた。
抗ヒスタミン薬
以上のうち、主に抗不安薬、中枢神経刺激薬、鎮静催眠薬の一部が麻薬及び向精神薬取締法で向精神薬に指定されている。


治療薬の法的等級(日本) [編集]
日本では、医療用に指定された向精神薬は等級に分類される。 医療上の有益性と、濫用の危険を考慮し等級が決定される(等級が上ほど取扱いは慎重にすべきである)。


第一種の例 メチルフェニデート(リタリン)・モダフィニル(モディオダール)
第二種の例 フルニトラゼパム(ロヒプノール)・ベントバルビタール(ラボナール)
第三種の例 アルプラゾラム(ソラナックス・コンスタン)・エスタゾラム(ユーロジン)・ゾルピデム(マイスリー)・ジアゼパム(セルシン・ホリゾン)・トリアゾラム(ハルシオン)
尚、第一~第三種の向精神薬全ては麻薬及び向精神薬取締法に基づき、調剤・検査目的以外での製造は認められない。 同様に、輸出入も禁止されている。 例外として、個人利用目的に限り1ヶ月分の分量までは携帯して出入国が可能である(医師の処方を証明するものがあれば、それ以上の分量でも可能である)。

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治療薬の乱用 [編集]
メチルフェニデート(リタリン)やアンフェタミン、モダフィニルといった覚醒作用のある向精神薬の乱用が報告されている。

以下の薬物は薬物乱用として問題にされるが、同時に医療に応用されているものもある。

モルヒネ
麻酔薬としても用いられる。
ヘロイン
モルヒネから作られる。
リゼルギン酸ジエチルアミド(LSD)
幻覚剤の一つ。心理療法に用いられる研究も行われている。
フェンサイクリジン(PCP)
幻覚剤の一つ。
3,4-メチレンダイオキシメタンフェタミン(MDMA)
乱用が問題になっているが精神治療に用いられる研究も行われている。
覚醒剤(メタンフェタミン・コカインなど)
日本では覚せい剤取締法で規制されている。上述のように、国によっては中枢神経刺激薬として精神治療薬に用いられるものもある。
アヘン
あへん法で規制されている。

2009年04月29日

立春(りっしゅん)

立春(りっしゅん)は二十四節気の1つ。2月4日ごろ。および、この日から雨水までの期間。

太陽黄経が315度を含む1日で、春の初め。正月節。『暦便覧』には「春の気たつをもつてなり」と記されている。 冬至と春分のほぼ中間にあたり、昼夜の長短を基準に季節を区分すると、この日から立夏の前日までが春となる。九州など暖かい地方では梅が咲き始める。暦の上では「春」になるが、実際には余寒が厳しく、大寒とともに最も寒い時節でもある。

立春の前日は節分である。立春から数えて88日目を八十八夜、210日目を二百十日、220日目を二百二十日と呼ぶ。

立春以降初めて吹く南よりの強風を春一番と呼ぶ。

立春の早朝、禅寺では門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある。

旧暦(太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。中国暦で立春の次の雨水を含む月を正月(一月)としたのは、立春の頃を年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)(古代中国、夏の正月)と云う。

節切りにおいては、立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が変わるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣である。

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二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「春の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「大寒から立春までは一年のうちで最も寒い季節であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくる」 とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような気象的事象の故に 「立春」 が定められたのではなく、冬至から春分への中間点として、暦法上の要請から定められたものだと云うことである。春の区分は、西欧では習慣的に暑くも寒くもない季節、つまり『春分から夏至まで』を"Spring"とするのに対し、古代中国では昼夜の長短のピークとなる二至(夏至、冬至)と、昼夜の長さがほぼ同じとなる二分(春分、秋分)を各季節の中心とし、これらの中間に各季節の区切りとして四立(立春、立夏、立秋、立冬)をもうけた。ここに中国暦法の1つの大きな特徴がある。

中国式陰陽暦(中国暦)には3つの大きな特徴がある。1つは、西欧では春分起点(天文学として)であるのに対し、冬至起点であること。 2つ目は、二十四節気を用いた 『歳中置閏法』 であること。 最後は、二至二分を季節の区切りとせず (西欧では季節の区切りとする)、二至二分を各季節の主体として季節の真中に定めたことである。
前述のように、中国式陰陽暦(中国暦)の二十四節気では、『立春から立夏まで』を『春』とする。従って欧米での習慣的な天文的区切り(春分から夏至まで)とは、おおよそ1.5ヶ月ずれている。明治以降、日本では陰陽暦(太陰太陽暦)を廃止し太陽暦とし、気象学も欧米より学んだ。気象学的には、これも習慣的ではあるが、3月~5月が春、6月~8月が夏、9月~11月が秋、12月~2月が冬とされる。明治以降、欧米的四季感覚に慣らされたこんにちの日本人とすれば、2月4日(頃)の立春に対し、季節感のずれを感ずるのは否めない。

旧暦では、年によっては年が明けるよりも先に立春が来ることがある。これを年内立春(ねんないりっしゅん)という。古今和歌集の巻頭に以下のような歌がある。

年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ 〔在原元方〕

現代語訳:「年が明けないうちに立春が来てしまった。年が明けてからは、同じ一年のうちである立春から大晦日までの間を去年(こぞ)と言おうか、今年と言おうか」

このように歌に詠まれるくらいの年内立春であるが、実はそんなに珍しいことではない。ここ数年の立春の日附を列挙する。

2009年04月13日

劉 濞(りゅう び)

劉 濞(りゅう び (濞の字は、氵(さんずい)に鼻)、紀元前215年 - 紀元前154年)は、前漢前期の皇族で、沛県の出身。呉楚七国の乱の首謀者。

生い立ち [編集]
劉喜(高祖・劉邦の兄)の長子。弟に劉広(徳哀侯)がいる。代王に封建された父・劉喜が代を攻めた匈奴から逃亡し、郃(合 + 阝)陽侯に格下げされた後、彼は沛侯に封じられる。紀元前196年に淮南王英布が反乱を起こした際に、劉邦の親征軍に将軍として従軍し、騎兵を率いて活躍した。

諸侯王に封建 [編集]
その功績によって、戦死した荊王劉賈の後釜として、呉王に封建された。封建された直後、その挨拶のために、劉邦の元に参内したときの話として、次のようなものが伝えられている。

すでに王に封建したものの、劉濞の人相が、謀反人のそれであることに不安を感じた劉邦は次のように言った。「予言によれば、これから50年後に(帝都・長安から見て)東南の地(呉の領域)で反乱が起こるというが、わしもお前も同じ血を引いた一族同士。まかり間違えても反乱などと馬鹿げたことをするなよ」劉濞はこう答えた。「ゆめゆめそのような真似はいたしません」

かくして、呉王として任地に赴いた劉濞であったが、中央政界に於ける呂雉を筆頭とする呂氏一族の専横とこれに対抗する元勲達との政争に巻き込まれることもなく、国内整備に邁進することとなる。その結果として、呉は、その領域内から産出される、銅と塩の生産と、それの他国への販売によってもたらされる巨万の富を背景に、国民に税をかけること必要もなく、労役に国民を駆り出した際には、却って手間賃を払うというような一種の別天地の様相を呈するようになる。さらに、税役を負担しきれず他国から逃亡してきた連中を国内に迎え入れて彼等に銭を盗鋳させるなど、中央政府でも統制出来ぬくらいの勢力を誇るまでになった。

呉王時代 [編集]
しかし、呂氏一族が滅び、文帝(劉恒)が即位し、文帝が政権を握るようになると徐々に様相が変わっていく。文帝の側近達は、積極的に諸侯王の勢力を弱めていくことを文帝に進言し、文帝もこれを容れ、主に、文帝と帝位を争った斉王家を対象にその政策が実行されてゆく。

そんな中、長安に父・劉濞の名代として、王世子の劉賢が長安に参内し、劉賢をねぎらう宴会が催されたが、宴会の余興(「博」と呼ばれる、今で言うボードゲームの一種)をめぐって、皇太子・劉啓(後の景帝)と口論となり、劉賢が皇太子に「博」の盤で撲殺されたのである。劉賢が殺害されたこと及びその後の漢王朝側の対応に不満を抱いた劉濞は、諸侯王の義務である長安への入朝を取りやめた。当然このことは、中央政府内で問題視されたが、文帝のとりなしで、不問にされた。文帝は、劉濞が老齢であることを理由に、参勤を免除し、杖と脇息を与えて、ことを不問にしたのである。

謀反を起こす [編集]
呉と漢王朝との関係は、文帝の存在もあって、一応の安定を得たものの、紀元前157年に文帝が逝去すると、事態は急変する。文帝の後を継いだ景帝は、かつて劉賢を殺害した相手であり、さらに景帝の側近・晁錯はかねてより積極的な諸侯王削減策を唱えていた。これに危機感を覚えた劉濞は、中央政府の政策に反感を覚える、楚や斉の諸侯王と手を組み、紀元前154年、「わしは62歳で軍を率い、わしの末子は14歳で従軍している。これより62歳以下、14歳以上の男子には兵役に就く義務を課す」と号令して、ついに20余万の軍勢を率いて挙兵する。これが、呉楚七国の乱である。

情勢は、当初、反乱軍が優勢であり、長安では討伐軍への従軍を命じられた諸侯がその費用を金貸しに借りようと申し込んだ際に、長安中の金貸しから断られたという逸話が残るほどであった。また、劉濞の亡弟・劉広(徳哀侯)の子である劉通(徳頃侯)とかつて呉で宰相を務めていた袁盎が説得したものの、自ら漢の東帝を自称し既に自らが皇帝になったかのような素振りを見せ説得に応じず、袁盎を抑留して自分の将軍にしようとした。

しかし、有利な情勢に気をよくした劉濞の作戦ミスと周亜夫の活躍により、徐々に形勢は逆転し、呉軍は壊滅し劉濞はわずかな側近達を引き連れて、かねてから親交のあった東越王の下へ逃走する。しかし、ここで東越王の裏切りに遭い、刺客に殺害された。また首謀者の劉濞の死を知り、反乱を共謀した各国の王やその太子らも自殺、もしくは漢軍に討ち取られ、呉楚七国の乱は3ヶ月で鎮圧された。これ以降、漢王朝は諸侯王の勢力削減策をさらに強化し、中央集権制への移行を進めることとなるのであった。

宗室 [編集]

子 [編集]
太子・劉賢
子・劉子駒
子・劉子華

オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

2009年03月29日

西洋の盾

バックラー (Buckler)
小型の盾で相手に突きつけるように構える。中型の盾とはまったく異なった技術を要する。その感覚は二刀流に近い。13世紀に書かれた西洋剣術の最も古いテキスト「Royal Armouries Ms. I.33」はバックラーとブロードソードの扱いを述べている。
バックラーはレピアの時代に入っても好まれた息の長い防具である。中心に長いスパイクをつけたスコットランドの物はタ-ジュと呼ばれる。レピアが使われた時代の物は太い針金をリング状にした物をつけたバックラ-が見られる。これはソードブレイカーである。リング状部分で相手の剣を絡め折り取る。
ランタン・シールド (Lantern shield)
これは盾と篭手、腕鎧が一つになり、ダガー、果ては戦闘には関係ないランタンまでもがついていて、実際の戦闘に使われたとは考えにくい。
この原形はおそらくプレートア-マ-の肘を大きく強化し盾の代用としたグリニッジ甲冑であろう。甲冑が発達すると盾はトーナメントの際の紋章(看板がわり)と馬上鎗試合用のスポーツプロテクターとなった。タ-ジュとよばれ左の胸に固定された。中には演出のために槍が当たるとバネで盾が飛散する仕掛けのものもあった。
デュエリング・シールド (Dueling shield)
ソードシールドとかスパイクシールドとも呼ばれる大形の盾である。構造は棒術に使う棒に盾が付いたようなデザインで、両端はフックやスパイクになっている。これは裁判決闘に使われ、戦場では使用されなかった。扱うのに広い場所を必要としたため複数対複数の戦争には向かないからである。場合によってはトーナメント種目でつかわれたかも知れない。

東洋の盾 [編集]
ティンベー
海亀の甲羅で出来た盾。ローチンと呼ばれる短い鉾と合わせて使われる[1]。
団牌(だんぱい)
円形の盾全般。別名、蛮牌。右手に刀を持って使われる。また、模様は太極図や八卦、虎の顔や鬼の顔なども描かれている。
籐牌(とうはい)
団牌の一種で籐などのかずらで籠のように編んだもの。籐とはラタンのことである。これは軽くて丈夫であったが突きや矢には弱い。
陣笠(じんがさ)
元来は簡易兜として作られた革・鍛鉄製笠を紐を持って円形手盾として使用する。戦国時代以降鎧を着込む『具足剣術(鎧剣術)』の一つに構想された手法。
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中南米の盾 [編集]
板状方形の木盾にキルティングを施したなめした毛皮で被い長く垂らし、頭部や胸部は木盾で、その布地部分でカーテンの原理で下方から攻める敵刃を逸らして防いだ。マカナと呼ばれる剣やホルカンカと呼ばれる槍と一対で装備されることが多い。

現代の盾
防弾シールド(防弾盾)
ジュラルミン盾
機動隊の使用していた盾。
ポリカーボネート盾
ジュラルミン盾に代わって機動隊に採用された盾。透明もしくは半透明な為に視界を確保しやすい。ピストルポートがついたものもある。ただし銃付き盾は15世紀には見られる。

盾の精神性 [編集]
剣が攻撃を象徴するならば盾は防御の象徴として使用される。マケドニアに代表されるファランクスは長い槍と盾を重ね合わせて隊列を作る密集部隊であった。兵士は横に並んだ戦友の右半身を盾で守る。したがって盾をなくす事は非常に不名誉な事とされた。また、「盾に担がれて凱旋する」は名誉な戦死を遂げた者が盾に乗せられ仲間に担がれたことを意味する。

実際の戦いに臨んでは、盾は攻撃に消極的な感じを受けるが実際は逆である。標準的な盾は持っただけでからだの1/3は防御できる。これは命中判定が無条件に2/3になると言う事を意味する。自分に盾がなく、相手が盾を持っている場合これは非常に不利な条件である。一方相手は自分の攻撃が2/3になるのだからより積極的になる。また武器は片手用だから間合いは短い。嫌でも積極的にならざるを得ないのである。

盾のテクニック
基本は大きな盾ほど体に寄せバックラ-のような小さな盾ほど体からはなす。これは盾の陰を大きく取りその中に体を入れるためである。
盾は重いので肩で上下はさせない。肘を中心に上下を、腰の回転で左右を守る。
小型・中型の盾は、防御だけではなく攻撃の補助具としても使われる。
合戦において、盾は傘代わりに使える(城塞や攻城塔、熱した油、弓兵による一斉射撃の弾幕などの上からの射撃・投擲に対する防御)。
動く防壁としても機能する。
白兵戦で上段からの攻撃は盾を上に上げて対応し、そのまま顔や首などを突き当てて片手の武器などで腹などを狙う、壁などに押し当てる、など。下段からの攻撃は盾を下に下げて地面に相手の武器などを挟み身動きが出来ない状態で頭上から相手を狙う、など。

盾の利点・欠点 [編集]
盾の利点

構えの状態や相手に押し付けるなどで、相手の攻撃方向を制限する。
敵の弓などの射撃を防ぎつつ、接近戦に持ち込む。
盾をかざして、体当たりに使う。
盾で殴る。小型の盾ほど、この攻撃は行いやすい。
複数の盾持ち兵を並べてファランクス(方形陣)を組み「移動トーチカ」を形成し、敵陣を蹂躙する(古代の戦術)。
盾の欠点

小型盾は足元への攻撃には弱い。
大型盾は至近距離での格闘戦で邪魔になる。
大型になればなるほど持ち運びが困難になる。
大型盾の場合は死角が広がり、自身の(直射線上の)攻撃角度も大幅に制限される(攻撃能力の低下)。
片腕が塞がれて攻撃力が大幅に低下する(片手での武器使用を余儀なくされる、強力な射撃武器が扱えない)。
転倒すると、大きい盾ほど起き上がる時の邪魔になる。
重量増加などにより機動性が低下する。サイズや形状によっては、隠密行動にも支障をきたす。
盾に異物(矢や投擲槍など)が刺さったままの状態になるとバランスが悪くなり、保持し続けるのが困難になる(通常は投棄する)。
一定以上の威力を持つ攻撃(長槍、斧、大型か強力な弩や弓や投石器等で有効射程内、攻城兵器など)で破壊されてしまう(技量によっては「受け流し」等で幾らか防せぐ事も可能では有る)。また、現代のような防弾仕様でない古代の盾は、銃弾が貫通する。
ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

架空の盾 [編集]
アイギス - ギリシャ神話。現代英語でイージス。

2009年03月14日

リラ修道院

リラ修道院(-しゅうどういん、ブルガリア語:Рилски манастир)は、ブルガリア最大で最も著名な正教会(ブルガリア正教会)の修道院。リラの聖ヨハネ修道院、またはリラの僧院とも称される。修道院はリラ山脈の北西、及び海抜1147メートルの高さにあるリラ川の深い低地にある、ブルガリアの首都ソフィアから117キロメートルに位置する。キュステンディル州リラ自治体にある。

10世紀に創設されたリラ修道院は、ブルガリアにおいて最も文化的、歴史的、建築学的に重要な遺跡の一つであると評価されている。こうした理由から、ブルガリアとヨーロッパ南東部において、観光客をひきつける要所となっている。

リラ修道院は1983年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
伝承からリラ修道院は、ブルガリア皇帝ペタル1世の統治する時代(927年-968年)に、リラの聖イオアン(イヴァン・リルスキ)が設立したと考えられている。彼は教育を受けるため山脈へやってくる彼の教え子達が修道院を建設していた間、実際にその修道院からそう遠くない洞窟で生活していた。

創設以来、リラの修道院はブルガリアの統治者から後援され、尊重されてきた。オスマン征服まで続いた第二次ブルガリア帝国のほぼ全てのツァールによって大規模な寄付が行われ、修道院は12世紀から14世紀にかけ、ブルガリア国民の意識の中で文化的・精神的中心の頂点を極めた。

リラ修道院は14世紀中に、フレリョ・ドラゴヴォラという名の地方封建王により、現在の位置に再建された。修道院内の複合建築物にはこの時代に建てられたものが現在も含まれており、フレリョの塔(1334年-1335年竣工)やその隣にある小さな教会(1343年竣工)などがあげられる。司教の椅子や豪華に彫刻された修道院の門も、この時代に属するものである。しかし、14世紀末のオスマン人が出現し、修道院への数々の襲撃や破壊が15世紀半ばに行われた。

だが、その後ロシア正教会、正確にはアトス山にあったロシコンの修道院による寄付のお陰で、15世紀末には聖ヨハネの遺品を持ってキュステンディル地域からやってきた、3人の兄弟によりリラ修道院は改築が施されたのである。

修道院内の複合建築物は、外国の統治下にあった時代におけるブルガリアの言葉や文化を所蔵する、保管所の役割を務めた。ブルガリア復興期(18世紀-19世紀)において修道院は、1833年に火事で破壊された後、1834年から1862年の間にブルガリア全体から裕福な国民の援助を受けて、建築家アレクシ・リレツの指導の下に修復が行われた。住居となる建物の建設は1816年に始まり、1844年にはフレリョの塔に鐘楼が取り付けられた。また修道僧のネオフィト・リルスキはこの時期に修道院内へ学校を設立した。

ブルガリア復興期の建築物の最初の傑作の一つとみなされている修道院複合建築物は、1976年に国立史跡として表明され、1983年にユネスコの世界遺産へ登録された。1991年以来、修道院はブルガリア正教会の教会会議に付随している。

建築物全体の敷地面積は8800平方メートルを占める長方形の形状であり、フレリョの塔や中心となる教会は内部構内(3200平方メートル)周辺に集中して位置している。


教会 [編集]
修道院内で最も中心的な教会は19世紀半ばに建設されたものである。その教会を設計した建築家は1834年から1837年にかけて建設を指導した、ペタル・イワノビッチであった。教会は全部で5つのドーム(丸屋根)、3つの祭壇と2つのチャペルを有するほか、内部にある最も貴重な遺物の一つには、4人の手工芸者が創作に5年を要し、木彫りであることでも有名な金色のイコノスタシスがある。また1846年に完成したフレスコ画は、ブルガリア復興期において最も有名な画家であったザハリ・ゾグラフとディミタル・ゾグラフ兄弟の作品を含む、ブルガリアの都市バンスコ、サモコフ、ラズロクからもたらされた多くの傑作群である。教会はそのほかにも、14世紀から19世紀に作られた数多くの価値ある聖像を収める、収蔵所にもなっている。


住居部 [編集]
修道院の一角にある4階建て(地下を除く)の住居部分は300間、4つの聖堂、大修道院長室、キッチン(めったにない巨大な器があることで有名)、全250の手記と9000冊の年季ある印刷物を収容する図書館、そして寄贈者室から成っている。石製の高い壁と僅かな窓で覆われた複合建築物の外観は、修道院というよりむしろ要塞に似ている。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

修道院博物館 [編集]
リラ修道院博物館は木製の十字架で縦81センチ・横43センチメートルある、「ラファイルの十字架」を所蔵していることでとりわけ有名である。これは、ラファイルという名の僧がきめ細かい彫刻刀で削って彫ったもので、拡大鏡も使用して更に104の宗教的場面と650の人物を細密に再現したものである。この芸術作品は1802年にラファイル僧が視力を失うまで、少なくとも12年続いたとされる。

2009年02月25日

タイムボカン

木江田博士はタイムマシン「タイムボカン」の試運転に出かけたが、行方不明となってしまう。帰ってきたのはオウムのペラ助と世界最高級の宝石「ダイナモンド」だった。木江田博士の孫娘・淳子と博士の助手の丹平はコンビを組み、どこかの時代に消えてしまった博士をタイムトラベルしながら探すが、ダイナモンドを狙う悪玉トリオがその道中で邪魔をする。

その後、木江田博士は現代に帰還し丹平たちと再会する(27話)。それ以降は、悪玉トリオのダイナモンド入手の阻止や、ペラ助の故郷探しなどの旅をする。

ミニカーを売るためのアニメという発想で、1966年のアメリカ映画『グレート・レース』の影響を受けたカーレースものが源流である[要出典]。1972年頃には「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」という本作の企画が決定。『タイマー大混戦』とタイトルがつけられて、その時点でメカブトンのデザインは出来上がり、15分のパイロットフィルムを制作。このパイロットフィルムは1話の数シーンやオープニングに一部流用された。パイロットフィルムでの淳子は金髪だったため、本編では青の髪だった淳子の髪はその流用されたカットで金髪になっている。

タツノコプロでは当時、ハードなアクションものが続いたためギャグものを、ということだったが、ギャグにしてはタイムトラベルやメカの要素などが盛り込まれた本作は、監督の笹川ひろしによると中途半端な印象を与えたといい、スポンサーがつかずに放映決定まで3年を要することになった。主人公の名前は当時の人気アイドルから取られ、野口五郎と天地真理から五郎と真理だったのが、3年の経過により、アイドルの人気の変遷から、真理が桜田淳子から取った淳子になっており、放送の決定後、タイトルが『タイムボカン』と改められた。

丹平と淳子及びマージョは2つの山形の隆起がついたヘルメットを常に着用している。この隆起のモチーフは、キャラクターデザインを担当した天野嘉孝によれば、ブラジャーである。

マージョ、グロッキー、ワルサーの「悪玉トリオ」には決まった名称は無いが、後年の出版物では便宜上「マージョ一味」と呼ばれている。木江田研究所での会話をあの手この手で盗聴し、丹平たちが出た後を追跡し、木江田博士からダイナモンドの場所を聞き出す事を狙う。

当初2クール26話を予定していたが、好評のため2クール、その後さらに1クール延長され、最終的に全61話となった。当初の目的の一つだった木江田博士と中盤で再会するのはその名残である。
ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム

ダイナモンド
本作の探査対象であるダイナモンド(Dynamond)は、「宇宙一高価で、ウラン以上の爆発力を秘める宝石」とされている。名前の由来はダイナマイト+ダイヤモンド。また、dyna-は「力」を意味する接頭語でもある。

25話においてマージョ一味はダイナモンドを利用したダイナモンド光線銃で、シャーウッドの森を一瞬にして大爆発させている。その実態は隕石で空気に触れる事でただの石になってしまい、最終回で探し当てたダイナモンドも、長年の空気との接触でただの石になってしまった。

なお、常にカットされた宝石で登場しており、原石では出てこない。

また、最終回のサブタイトルは正しくは「ダイナモンドを発見だペッチャ」だが、本放送時の番組表では誤植のため「ダイヤモンドを発見だペッチャ」と書かれていた。

丹平(たんぺい)
声 - 太田淑子
木江田博士の助手として働く男の子。メカに強く、運動神経も抜群であり、博学多才で歴史にも強いが、少しおっちょこちょい。熱血、純真、勇敢を兼ね備えている。淳子、チョロ坊、ペラ助からは「丹平ちゃん」と呼ばれている。破損したタイムボカンを修理することが出来るらしく、台詞の中にもそれを思わせるものがある。親兄弟などの背景は描かれておらず、学校に通っている様子も見受けられないため、人物像としてはシリーズ中で最も不明な主人公。13歳。
淳子(じゅんこ)
声 - 岡本茉利 (34~36話は横沢啓子が代役)
木江田博士の孫娘。博学多才な大和撫子。祖父思いの優しい娘である。面倒見が良くみんなから慕われている。泣き虫だが芯は強い。カワイコちゃんに弱い丹平を諌めることもしばしば。10歳。名前の由来は桜田淳子から。
代役を務めた横沢は3話でのゲスト出演がデビュー作となった。
チョロ坊(チョロぼう)
声 - 桂玲子
丹平が作ったロボット。知能は幼稚園児並み。初めはペラ助を目の敵にしていたが、次第に仲良くなった。動力源は背中のゼンマイ。ただし、ゼンマイが切れても歩行出来なくなるだけで本体は動作可能。口部から火炎を吐く。
木江田博士(きえたはかせ)
声 - 槐柳二
淳子の祖父。世界的な科学者でタイムボカンの試運転に出かけた際にペラ助にタイムボカンを奪われてしまい、27話で生還するまで消息不明だった。帰還後は丹平たちと冒険に同行し、ダイナモンドを追う。時々ダイナモンド調査を丹平達に任せて留守番する事もある。60歳。
ペラ助(ペラすけ)
声 - 滝口順平
博士の消息を知る唯一のキャラだが、いい加減な証言が多い。唯一怖いのは妻のオタケさん。かなりの食いしん坊であり、シュークリームが大好物。後半に入るとマージョ屋敷に潜入し、マージョ一味がダイナモンド探しに出ようとする一部始終を見聞きして丹平たちに知らせることがよくあった。語尾は「~だペッチャ」。タイトルの読み上げ、次週予告のナレーションも担当。
オタケさん
声 - 遠藤晴
ペラ助の奥さん。いつも旦那であるペラ助をこき使って楽をしていた。ペラ助がいなくなった後は博士とともに共同生活をしていた。内心はペラ助のことを愛している。なお、遠藤は31話「夢見るシンデレラ姫だペッチャ」において継母役として出演している。

悪玉
マージョ
声 - 小原乃梨子
悪玉トリオの女ボス。30歳。己の欲望のためなら手段を選ばず、とりわけ丹平たちに対しては殺意さえ持っているなど、後のシリーズにおける女ボスよりも若干過激な性格。27話では実際に、後のタイムボカン2号となるドタバッタンの元来の所有者である昆虫人を3体も、彼等の持っていたブラスターで射殺している。歴代の三悪史上で唯一殺戮を行った女ボスである。しかし、根は意外と純真でお茶目。嫌いなものはヘビ、お化け、ジェットコースター、ネズミ。丹平たちと同じく2つの大きな隆起のついたフードを着用している。名前の由来は「魔女」から。なお、小原は60話ではシンドバット役も兼任した。
グロッキー
声 - 八奈見乗児
25歳。優秀な頭脳を持っており、木江田博士の所で筆頭の助手として働いていたが、実はマージョの命によりタイムマシンのノウハウを盗むためにスパイをしていた。一味の元に戻った後はメカの開発を担当する。一人称は主に「私」だが、稀に「俺」になる事がある。無類の女子高生好きだが、本心ではマージョと結婚したいと思っており、一味に入った理由もマージョに一目惚れしたからである。逆三角形型の輪郭に足先の長い靴のような赤っ鼻と大きな出っ歯がトレードマークでワルサーからは「ヒゲらっきょう」と呼ばれた事がある。この容姿の特徴は後のタイムボカンシリーズの三悪の頭脳系キャラ全般に、おおよそは受け継がれている。名前の由来は、いつもマージョにこき使われてフラフラになる意味の「グロッキー」(正しくは「グロッギー」)から。また、何時の間にかメカを開発するその速度の速さから、「クロッキー」からもきている。
ワルサー
声 - 立壁和也(現・たてかべ和也)
35歳。語尾に「~まんねん」と付けるなど関西弁風の台詞を使うが、関西出身かどうかは不明。一味では持ち前の馬鹿力を生かし、善玉との肉弾戦や力仕事を担当。外見とは裏腹にヘビやお化けを怖がったりする一面もある。後年の歴代三悪における怪力系キャラの礎はこの時点で既にほぼ完成されている。また、メカの操縦にも積極的に関わる。グロッキーとともに極端な猫背。名前の由来は「悪さばかりしているから」もしくは銃器メーカーの「ワルサー」から。

その他
ナレーター
声 - 富山敬
本放送当時のスタンダードスタイルよりは若干くだけた、視聴者に語りかけるような、「みんな、○○は知ってるかな?」「来週も丹平君たちを応援してね!」などの優しい語りが特徴。また、富山は劇中のゲストキャラの声も演じていた。

登場メカ
善玉
タイムボカン(タイムメカブトン/タイムドタバッタン/タイムクワガッタン)
木江田博士が作り上げた、昆虫を模したデザインのタイムマシンメカ群。1話で丹平が「タイムボカンはメカブトン、ヤゴマリン、テントウキの3機から成る」と説明していたとおり、メインとなる大型(母艦)メカの中に2機の小型(機動)メカが搭載されたスタイルが基本である。
物語前半は専らカブトムシ型のメカブトンが活躍していたが、木江田博士帰還後にはメカブトンに加えて、元々昆虫人が過去の人間界を征服するために乗っていたメカを改良したバッタ型のドタバッタンと、帰還後に木江田博士が作り上げたクワガタムシ型のクワガッタンの3種の中から目的地により、最適なメカをコンピューターが自動的に選択して出動するようになった。
「タイムボカン」の名前はいずれのメカも航時機能使用時に時空に穴を明ける為に相当な爆発を引き起こすという特徴がある事から、爆発音に由来するものだが、他にも大型メカに小型メカを複数格納している事から母艦という意味合いも持っている。
タイムメカブトン(タイムボカンI)
カブトムシ(雄)型メカ。ボディーは青色。ツノの先は回転させることが可能で、ドリル状に使用して地中を掘り進める。他の二台とは異なり足の類は無く、通常は機体下部から展開する車輪によって地上を移動する。飛行時にはオープニングの1シーンにも見られる通り機内に収納後、本物のカブトムシの様に前翅を展開し、羽の下の本体より翼を出して飛行する。背中にはテントウムシ型の小型飛行機・テントウキ、腹部にはヤゴ型の小型水中探索機・ヤゴマリンが搭載されている。
製造直後はコクピットを含めた機内全体が重力異常状態に陥ってしまい、乗員及び搭載物に強烈なGがかかる上機内を無軌道に移動させられることになった。これはオープニングで毎回の様に描かれたので非常に印象強い。木江田博士の帰還後に機体が整備されると共に重力異常状態が改善されたらしく、この様な描写は無くなっていった。ちなみに動力源は後部エンジンユニットに搭載される巨大乾電池状のエネルギーパック2本らしい。戦闘では主に羽と角が破壊される事が多い。
搭載機であるテントウキは、機体の下から円筒形のパーツを展開、その基部に備え付けられた車輪によって陸上走行も出来る。この部分は、テントウキの飛行中は機体内に収納されているものと推測される。その他、羽の星の部分からマニピュレーターをはじめとする様々な道具、あるいは武装を展開する事が出来、タツノコの名作『ガッチャマン』におけるG-4号の様な“玉手箱メカ(ガッチャマンの企画書の記述より)”振りを発揮した。テントウキは同番組の前身企画における主役機「タンマータンク」のデザインを流用したもの。母艦であるメカブトンの登場回数が多い事もあり、各機に搭載されたメカの中でも活躍度および印象度は随一。OPにて単体でのタイムワープが可能な様な描写があったが、本編ではその様な機能はないとされた。
メカブトンの呼称は作品中ではほとんど使用されず、単に「タイムボカン」とか「タイムボカンI」と呼ばれることが多かった。
タイムドタバッタン(タイムボカンII)
ショウリョウバッタ型のメカ。ボディーは緑色。27話で木江田博士をさらった昆虫人が現代に残したタイムマシンを博士自身の手で改良され、29話よりタイムボカンメカ2号として使用した。飛行時には足を後ろに伸ばす。シャクトリムシ型の小型偵察機・シャクトリン、ホタル型の小型作業用ヘリ・ヘリボタルが搭載されている。マージョには「タイムドッタリバッタリ」と呼ばれている。
物語後半では数多く使用され、最終回で使用されたマシンもドタバッタンだった。
バッタを模しているためか、戦闘においては脚部が必ずと言っていいほど敵のターゲットにされ、破壊された。ただし本体腹部にはキャタピラが内蔵されており、脚が折れても移動に支障は無い。
タイムクワガッタン(タイムボカンIII)
クワガタムシ型のメカ。ボディーは赤茶色。木江田博士が帰還後に製作し、29話で配備され、33話で初出動した。ドタバッタンの様な脚を持ち、脚先にはメカブトンの様に車輪も搭載している。飛行時には前翅が展開し、竹とんぼ状のローターを持つ大型ヘリコプターとなる。ハチ型の小型偵察メカ・ビーチクリン、ダンゴムシ型の小型地上進行用メカ・ダンゴロリンが搭載されている。
ナレーターも「パワーが強い」と言及しており、仕様からも判る通り、他のタイムボカンのノウハウが全て注ぎ込まれた高性能メカのはずだが、移動の要である四肢とプロペラが貧弱であり、戦闘ではよく破壊される。戦闘では巨大な顎を武器として使用しており、マージョ一味に逆襲する際にもこの顎によって何度も窮地を脱した。
知名度も含めて今一つ他機に及ばない印象が強いものの、回を追うにつれてクラッシュが激しくなったメカブトンやドタバッタンよりも比較的外部損傷度は低い。
竹とんぼを模しているからか、ローターは前翅が展開した一つしかないが、後部に噴射ノズルがあるのでちゃんと飛行出来る。

2009年02月09日

イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立

18世紀後半の1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立されたのをきっかけに人道的見地からくる奴隷制度の反対運動はますます激しくなり、1807年にはイギリス、アメリカで奴隷貿易禁止令が設立、各国も後を追うように1814年にはオランダ、1815年にはフランスでそれぞれ奴隷貿易が禁止とされた。イギリスやアメリカは自国の海軍力を背景として奴隷貿易の実力阻止を試みたが、闇社会での奴隷制はその後もしばらく継続し[46]、完全に終止符が打たれたのは1880年代に入ってからのことであった。 一方、1880年代以降には、ヨーロッパ各国によるアフリカ大陸に対する植民地政策が本格化しはじめる。スコットランドの探検家マンゴ・パークやヒュー・クラッパートンをはじめ、ヨーロッパ人のアフリカ内地への探検活動が活発化し、またキリスト教の布教活動も本格化していった。さらに、産業革命に伴い、奴隷に取って代わってアフリカの産物人気に火がついた。象牙の価格は1822年から1872年までの半世紀で4倍以上に跳ね上がり、列車の機械油の原料としてニジェール川のアブラヤシやセネガンビアの落花生が、石鹸やロウソクの原料としてヤシ油やピーナツ油の需要が急増した。

こうした探検家によって齎されるアフリカ内陸部の情報やアフリカ大陸が産出する資源の「可能性」はヨーロッパ各国の領土的な野心を大きく刺激した。
キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

アフリカの分割
ベルギー王レオポルド2世1870年代の初め、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入る頃はアフリカ大陸のうち、ヨーロッパ各国の支配化に組み込まれた地域は大陸全体のわずか10%程度であった[47]。しかし、1880年代に入るとイギリス、フランス、ポルトガルに加えベルギーやドイツ、スペイン、イタリアなどとともに激しいアフリカ大陸の争奪競争が始まることになる。この大争奪戦の遠因は、隣国オランダの潤沢な植民地に領土的な野心を働かせ、コンゴの大地を狙ったベルギーの当時国王レオポルド2世によるものとされている。レオポルド2世は1870年代末にコンゴ国際協会を設立し、ヘンリー・スタンリーと共にコンゴの植民地化を進め始める。同時にコンゴ川近辺の各地の現地民と400を超える保護条約を締結、コンゴ国際協会の支配化に組み込んだ。これに対しポルトガルがコンゴ河口周辺の主権を宣言、イギリスがこれを承認した。これらの動きに刺激されたフランスはコンゴ川北方の現地民と保護条約を締結し、後のフランス領赤道アフリカの礎を築いた。一方時を同じくしてドイツも1884年にカメルーンの保護領化を宣言するなど、植民地化・アフリカの分割が加速度的に進んだ。1884年11月15日からはじまったベルリン会議にてこれらの無秩序なアフリカ争奪戦に一定のルールを課すことが決定され、以降アフリカ大陸において領土併合を行う場合の通告手法や利害調整の義務付けがなされた。

1912年のアフリカベルリン会議を経た頃になるとアフリカ分割はいっそう激化し、領土を巡った衝突もしばしば発生するようになる。フランスはサハラ砂漠から赤道アフリカを経てインド洋に抜ける横断的な領地獲得計画を推し進め、イギリスはナイジェリア、ウガンダ、ケニアを獲得しさらにカイロからケープにいたる流動線を確保しようとした。1898年にはファショダにおいてイギリスとフランスの勢力が衝突する事件が発生している(ファショダ事件)。イギリスはさらにボツワナやマラウイ、ジンバブエ、ザンビアなどを保護領化し支配下へと組み込んでいる。アフリカ領土争奪戦に遅れて参戦したイタリアはソマリアやエリトリアなどを獲得するが、エチオピアの地域獲得を目論んだ戦争(1896年アドワの戦い)でエチオピア軍に敗北し、撤退している。これらの分割競争は1899年に発生した第二次ボーア戦争をきっかけに一区切りがつけられることになった。

一連の分割競争の結果、領土的に広大な土地を獲得したのはフランスであったが、植民地から産出される鉱物などの質的な面で言えばイギリスに軍配が上げられる。また、植民地化を逃れたのはアメリカの解放奴隷が1847年に建国したリベリア共和国、強固な軍事力を持ってイタリアを排除したエチオピアの2ヶ国のみであった。ヨーロッパ各国はこれらの植民地政策に対し、必要に応じて白人優越主義やダーウィニズムの論理を唱え、「自己発展の能力に欠けるアフリカの文明を開化させることは先進国の責務である」などといった自己中心的な正当性を主張した[48]。アフリカはこれら植民地政策の手から完全に逃れるには、一部の国を除き、およそ半世紀の月日を待たねばならなかった。

独立運動
植民地化政策が活発に行われていた時期から、アルジェリアのアブド・アルカーディルの闘争やスーダンのマフディー派の闘争など、枚挙に暇が無いほどの抵抗運動が各地で行われたが、これらの抵抗運動は第二次世界大戦後は独立運動という形でさかんに叫ばれるようになった。

第二次世界大戦後まもなく、イギリスのマンチェスターで第5回パン・アフリカ会議が開催された。パン・アフリカ会議自体は戦間期より開催されていたが、これまでの会議が欧米のアフリカ系知識人主導であったのに対し、この会議ではアフリカ内部の民族運動家が加わり、パン・アフリカ主義が高揚した。とりわけ西アフリカでは、民族運動に直面したイギリス政府が、英領ゴールド・コーストなどで徐々にアフリカ人の権利拡大に応じていった。

アルジェリア戦争北アフリカでは、1951年のリビア独立(旧イタリア植民地)を皮切りに、1956年にはモロッコ、チュニジア(旧フランス植民地)が独立した。しかし、フランスによる植民地化が最も早かったアルジェリアでは、多くのフランス系白人(コロン)が独立に反対し、1954年よりアルジェリア戦争が勃発した。アルジェリア戦争に苦慮したフランス本国では第四共和政が支持を失ってゆき、アルジェリア駐留のフランス軍による反乱を背景としてド・ゴールを指導者とした第五共和政が成立した。ド・ゴールは、多大な費用を要する植民地帝国の維持より、産業発展や核開発を通じたフランスの威信回復を重視したため、サハラ以南における旧フランス植民地独立の流れが生み出された。

1957年、英領ゴールド・コーストがクワメ・エンクルマのもとでガーナとして独立を果たすと、アフリカの独立運動は勢いづいた。フランス植民地では、第五共和国政府が「フランス共同体」のもとでの大幅な自治を認めたため、「隷属の下での豊かさより、自由のもとでの貧困(Nous préférons la liberté dans la pauvreté à la richesse dans l’esclavage)」として1958年独立に踏み切ったギニア以外はフランス共同体にとどまった。しかし、結局は1960年にあいついで独立し、ベルギー植民地であったコンゴでも数ヶ月の準備期間しかないうちに独立が果たされた。こうして1960年には17カ国が独立を果たし「アフリカの年」とも称された。1963年にはエチオピアのアジスアベバでアフリカ統一機構(OAU)が発足した。

全てのアフリカ諸国が平和裏に独立を獲得できたわけではない。中にはアルジェリアやアンゴラ、モザンビークのように、武力によって独立を獲得した国もあった。また、植民地だけでなく、1990年のナミビア、1993年のエリトリアのようにアフリカ独立国の支配から開放された国もある[49]。

ヨーロッパ各国の植民地化政策を経た末の独立という経緯から、アフリカの大地はきわめて不自然な形で細分化され、その不自然な国境線のまま独立を余儀なくされた。このため、分断された民族や文化の異なる民族の国家的な統合という課題が各国に共通する緊急の題目として掲げられている。ザンビア共和国の初代大統領カウンダはこれらの現状に対し、「我々の目的は植民地主義者が作り上げた無様な加工品から真のネイション(近代的な民族国家)を創作することである」と述べている。

アフリカの各国は国内に多数の部族を内包しており、それらの状態で多党制を採った場合、深刻な部族対立を齎すという懸念から、一党制を導入する国が過半数であった。しかし、この制度は独裁色を強め経済分野に対する国家介入がすすんで行われる結果となる。民間企業の国有化や外国人の排斥の風潮が強まり、経済発展を阻害する形となった。経済の行き詰まりは政治や国家に対する不信感を生み、やがれそれらは地域紛争という実態を持つようになる。さらにアフリカ全土で発生した旱魃はこうした事態に拍車をかけ、深刻なダメージを与えた。紛争と旱魃などの自然災害による難民が爆発的に増え、彼らが他地域へ移動する事で緊張が高まり、別の紛争へ発展するという悪循環に陥るようになった。

冷戦が終結し、1990年代以降に入ると、アフリカ全土に大きな民主化の波が押し寄せる。アジア経済研究所が発行する『アフリカレポート』によれば、1989年に多党制を取っていた国はわずか7国[50]だったのに対し、1995年には39カ国[51]が多党制へと移行している。こうした政治的な変化は国家の存続に危機感を抱いた民意の反映に他ならない。しかし、先に述べたとおり、多数の民族集団を内包するアフリカの土壌において民主化の道はさらなる深刻な部族対立を齎す可能性を秘めている。アジア経済研究所の武内進一は、アフリカの急速な民主化に対し、制度変革に対応した柔軟なアフリカ社会の変革が必要であると警鐘を鳴らしている。

2009年01月23日

まんがタイムきらら

まんがタイムきららは、芳文社発行の4コマ誌(4コマ漫画専門雑誌)。原則として毎月9日に発売されている(但し、地域によって発売日が異なる場合がある)。B5判、平綴じである。

キャッチコピーは「ドキドキ☆ビジュアル4コマ誌」(しばしば「D☆V」と略記される)。いわゆる「萌え系4コマ誌」の端緒を開いた雑誌として名高い。

まんがタイムの読者の平均年齢が毎年上がっていくことから、下の世代、主に幼少時代からテレビアニメに慣れ親しんできた世代をターゲットとした雑誌として企画された。その際、芳文社の既存の4コマ誌で既に執筆していた作家(海藍、おおた綾乃、関根亮子、師走冬子、ナントカ、など)だけでなく、それまで4コマ誌では作品を発表したことの無かった作家や、同人誌作家として知られているが商業誌での活動歴があまり無かった作家、また成人向け漫画誌では既に活躍中であるが一般誌においては作品の発表の機会がなかった作家など、異分野の作家(ふじもとせい、太田虎一郎、刻田門大、ナフタレン水嶋、新条るる、など)を集め、まったく新しい4コマ誌として創刊された。掲載作品も、異世界や現代以外の時代を描いたもの(『ぽけっとジャーニー』、『影ムチャ姫』、『1年777組』、『ねこきっさ』など)、普通の人間世界であるが特殊な設定の人物が登場するもの(『スーパーメイドちるみさん』、『かるき戦線』、『LOVE ME DO』、『てんしの末裔』など)、秋葉原という特殊な土地を舞台としたもの(『てんちょおのワタナベさん』)、など、それまでの4コマ誌では余り見られなかった傾向のものが多く、作風も学園ものであったり、テレビアニメやSF・ファンタジーものの世界観と通じるものも多い。この点が、会社が舞台であったり、生活に密着した作品やナンセンスものが中心であった従来の4コマ漫画誌とは全く異なる。

他の4コマ誌とは異なり、読者投稿欄(一部例外あり)、占い、パズル、などは掲載されていない。読者アンケートと懸賞は行っているが、他の4コマ誌では実用的な賞品が多いのに対し、本雑誌では掲載作家のサイン色紙などが賞品とされることが多い。これは他の一般的な4コマ誌が暇つぶしなどのために読まれることが多い傾向があるのに対し、同誌の購読者層はアニメやゲームのファン層と重なっており、特定の作家や作品のファンとなった者がその作品を目当てに継続して購読する傾向が強いという購読者心理を突いたものであると考えられる。

増刊号としての創刊当時は、実質的には連載作品であるものの、あくまで毎号のゲスト作品が継続的に掲載されているという扱いであった。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

2004年9月9日刊行のまんがタイムきらら2004年10月号にて『ハイリスクみらくる』が集英社の『私立T女子学園』と非常に酷似したネタの話が掲載されたところ、次号において謝罪広告が掲載された上に『ハイリスクみらくる』は打ち切りとなった。

本雑誌の姉妹誌に、「まんがタイムきららCarat」、「まんがタイムきららMAX」がある。また、2006年3月より「まんがタイムきららフォワード」が刊行されている。

まんがタイムKRコミックス
芳文社では、4コマ誌に連載された作品の単行本を「まんがタイムコミックス」として刊行(A5判)していたが、本雑誌に連載された作品の単行本については「まんがタイムKRコミックス」として別レーベルを設けた。本レーベルの単行本は、2003年7月に『トリコロ』第1巻から刊行が開始され、2ヶ月に1冊のペースで刊行され続けた後、2004年3月以降は毎月2冊のペースになり、その後も着々と毎月刊行される数が増え、現在は月8冊前後となっている。毎月27日前後に刊行。

書下ろし作品やイラストなどのカラーページが入っている関係で「まんがタイムコミックス」より若干価格が高めである。

また、ストーリー誌であるまんがタイムきららフォワードの刊行により、その掲載作品は、B6判として「まんがタイムKRコミックス」で、2007年8月発売の『S線上のテナ』第1巻より刊行を始める。

2008年7月からはコミックエール!で連載された作品を収録した「まんがタイムKRコミックス-YELL! series(エール! シリーズ)-」(B6判コミック)をラインアップ入りさせている。

2008年11月刊行より、まんがタイムきららフォワードとコミックエール!で連載の作品を収録した、ストーリー系の「まんがタイムKRコミックス」(B6判コミック)&「まんがタイムKRコミックス -YELL! series-」(B6判コミック)の刊行日を毎月27日刊行から毎月12日刊行に変更した。

本レーベルでは、巻末に「KIRARA MENU」として通し番号がつけられており、『トリコロ』第1巻が1番となっている。また、この通し番号には、限定生産だった『トリコロプレミアム』や、本誌では連載されていない『風華のいる風景』(大井昌和)なども含まれている。

なお、このレーベルは、最初の2冊(『トリコロ』第1巻と2003年9月の『てんちょおのワタナベさん』第1巻)では「まんがタイムきららコミックス」とされていたが、3冊目(2003年11月の『1年777組』第1巻)の発行時から現在の「まんがタイムKRコミックス」に変更された。これは、「まんがタイムきららコミックス」の商標登録申請が特許庁により拒絶されたためである。秋田書店が「きらら16コミックス」を登録済みだった為と推測される。「まんがタイムきらら」の商標登録申請は通っている。

きらスタ
前途有望な新人の作品を短期集中で掲載するもの。きららスタジアムの意味。2006年2月開始。

まんがタイム関連誌では伝統的に新人の作品をゲスト扱いで数回掲載しながら様子を見るが、きらスタでは同一作品をきらら・きららCarat・きららMAXの3誌で同時に掲載する。人気があればその作品をそのままいずれかの雑誌で連載に切り替え続投となる。新人の読者人気を短期で判断できるメリットがあり、読者層がほぼ同じ雑誌を複数抱えるきららならではの手法と言える。だがしかし、「うぃずりず(里好)」・「二丁目路地裏探偵奇譚(コバヤシテツヤ)」以降の挑戦者は連載に至っておらず、企画自体も現在停止状態にあり(2007年5月時点)、再び従来通りのゲスト掲載の方法をとっている。

まんがタイムきららWeb
まんがタイムきらら系雑誌の公式サイト。以前は「まんがタイムきらら★公式サイト」という名前で雑誌の発売予定日や内容、まんがタイムKRコミックスの発売予定等の情報しかなかったが、2006年12月8日に大幅リニューアルされ、独自ドメインが取得され、Webコミック連載やまんがタイムKRコミックスの試読が可能となっている。

2009年01月16日

キュビット(cubit、キュービット、キュビト、キュービト)

キュビット(cubit、キュービット、キュビト、キュービト)は、古代より西洋の各地で使われてきた長さの単位である。

今日、キュビットを日常的に使用している文化は存在しないが、宗教的な目的(例えばユダヤ教などで)は現在でも使われている。
ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

キュビットは、肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。キュビットという名称は、ラテン語で肘を意味するcubitumに由来する

他の身体尺と同じように、後に特定の人物(その土地の有力者、王)の体に基づいて決められるようになり、さらに他の長さの単位との関係の中で明確な定義が与えられるようになった。よって各地で様々な長さのキュビットが使われていたことになるが、その長さはおおむね50センチメートルである。

歴史
キュビットは、紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。紀元前1950年ごろのニップルにおける1キュビットの銅製の棒(517.2 mm)は、現存する中では世界で最も古い長さの標準である。古代メソポタミアの都市ラガシュの支配者グデアの座像が現存しており、その腕の長さから得られるキュビットの長さは496 mmである。コロンブス到達以前のメソアメリカの都市イサパで使われていた長さの単位も496 mmである。これは偶然の一致とも考えられるが、これをメソポタミアとメソアメリカとの間に文化的交流があった証拠だと主張する者もいる。

古代エジプトでは、紀元前2750年ごろのサッカラで、何らかの長さの標準が用いられていたということがはっきりしている。その標準は523.5~524 mmであり、その地におけるキュビットであると考えられる。エジプトでキュビットを表す象形文字は肘そのものである。ピラミッドもキュビットを基準にして作られているが、その長さを精密に測定した結果、ピラミッドには2種類のキュビットが使われていることがわかっている。これは、長いキュビットは王の腕から、短いキュビットは人民の腕から定められたものと言われている。

それ以外の多くの西洋の文化も、キュビットは使われた。ペルシャのキュビットは52~64 cm、古代ギリシャではπεχυα (pechua)と呼ばれ約47.4 cm、古代ローマではcubitusと呼ばれて約44.46 cm、アラブではarshと呼ばれて48~64 cmであった。ユダヤではאַמָּה(アマ)と呼ばれて46~61 cmであるが、これは今日でもユダヤ教で用いられている。

古代イスラエルでは、第一神殿時代のキュビットは428 mmであった。第二神殿時代には、一般的には 445 mmのキュビットが使われていたが、宗教的な目的には437 mmのキュビットが使用されていた。

分量・倍量単位
キュビットの分量単位には以下のようなものがある。その名前から、元々はキュビットとは独立して成立した単位と考えられるが、キュビットと関連づけられて、その分量単位となった。

1キュビット = 2スパン(span) -- 手を広げたときの親指の先から小指の先までの幅
1スパン = 3パーム(palm) -- 手を握ったときの人差指から小指までの幅
1パーム = 4ディジット(digit) -- (親指以外の)指1本の幅
キュビットの倍量単位には、その2倍のダブルキュビットがある。ダブルキュビットはヤードの長さの由来とされている。国際単位系のメートルも、実はダブルキュビットに近い値になるように定められたものである。他にも、西洋の長さの単位の多くはキュビットやダブルキュビットに由来している。