« まんがタイムきらら | メイン | タイムボカン »

イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立

18世紀後半の1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立されたのをきっかけに人道的見地からくる奴隷制度の反対運動はますます激しくなり、1807年にはイギリス、アメリカで奴隷貿易禁止令が設立、各国も後を追うように1814年にはオランダ、1815年にはフランスでそれぞれ奴隷貿易が禁止とされた。イギリスやアメリカは自国の海軍力を背景として奴隷貿易の実力阻止を試みたが、闇社会での奴隷制はその後もしばらく継続し[46]、完全に終止符が打たれたのは1880年代に入ってからのことであった。 一方、1880年代以降には、ヨーロッパ各国によるアフリカ大陸に対する植民地政策が本格化しはじめる。スコットランドの探検家マンゴ・パークやヒュー・クラッパートンをはじめ、ヨーロッパ人のアフリカ内地への探検活動が活発化し、またキリスト教の布教活動も本格化していった。さらに、産業革命に伴い、奴隷に取って代わってアフリカの産物人気に火がついた。象牙の価格は1822年から1872年までの半世紀で4倍以上に跳ね上がり、列車の機械油の原料としてニジェール川のアブラヤシやセネガンビアの落花生が、石鹸やロウソクの原料としてヤシ油やピーナツ油の需要が急増した。

こうした探検家によって齎されるアフリカ内陸部の情報やアフリカ大陸が産出する資源の「可能性」はヨーロッパ各国の領土的な野心を大きく刺激した。
キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

アフリカの分割
ベルギー王レオポルド2世1870年代の初め、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入る頃はアフリカ大陸のうち、ヨーロッパ各国の支配化に組み込まれた地域は大陸全体のわずか10%程度であった[47]。しかし、1880年代に入るとイギリス、フランス、ポルトガルに加えベルギーやドイツ、スペイン、イタリアなどとともに激しいアフリカ大陸の争奪競争が始まることになる。この大争奪戦の遠因は、隣国オランダの潤沢な植民地に領土的な野心を働かせ、コンゴの大地を狙ったベルギーの当時国王レオポルド2世によるものとされている。レオポルド2世は1870年代末にコンゴ国際協会を設立し、ヘンリー・スタンリーと共にコンゴの植民地化を進め始める。同時にコンゴ川近辺の各地の現地民と400を超える保護条約を締結、コンゴ国際協会の支配化に組み込んだ。これに対しポルトガルがコンゴ河口周辺の主権を宣言、イギリスがこれを承認した。これらの動きに刺激されたフランスはコンゴ川北方の現地民と保護条約を締結し、後のフランス領赤道アフリカの礎を築いた。一方時を同じくしてドイツも1884年にカメルーンの保護領化を宣言するなど、植民地化・アフリカの分割が加速度的に進んだ。1884年11月15日からはじまったベルリン会議にてこれらの無秩序なアフリカ争奪戦に一定のルールを課すことが決定され、以降アフリカ大陸において領土併合を行う場合の通告手法や利害調整の義務付けがなされた。

1912年のアフリカベルリン会議を経た頃になるとアフリカ分割はいっそう激化し、領土を巡った衝突もしばしば発生するようになる。フランスはサハラ砂漠から赤道アフリカを経てインド洋に抜ける横断的な領地獲得計画を推し進め、イギリスはナイジェリア、ウガンダ、ケニアを獲得しさらにカイロからケープにいたる流動線を確保しようとした。1898年にはファショダにおいてイギリスとフランスの勢力が衝突する事件が発生している(ファショダ事件)。イギリスはさらにボツワナやマラウイ、ジンバブエ、ザンビアなどを保護領化し支配下へと組み込んでいる。アフリカ領土争奪戦に遅れて参戦したイタリアはソマリアやエリトリアなどを獲得するが、エチオピアの地域獲得を目論んだ戦争(1896年アドワの戦い)でエチオピア軍に敗北し、撤退している。これらの分割競争は1899年に発生した第二次ボーア戦争をきっかけに一区切りがつけられることになった。

一連の分割競争の結果、領土的に広大な土地を獲得したのはフランスであったが、植民地から産出される鉱物などの質的な面で言えばイギリスに軍配が上げられる。また、植民地化を逃れたのはアメリカの解放奴隷が1847年に建国したリベリア共和国、強固な軍事力を持ってイタリアを排除したエチオピアの2ヶ国のみであった。ヨーロッパ各国はこれらの植民地政策に対し、必要に応じて白人優越主義やダーウィニズムの論理を唱え、「自己発展の能力に欠けるアフリカの文明を開化させることは先進国の責務である」などといった自己中心的な正当性を主張した[48]。アフリカはこれら植民地政策の手から完全に逃れるには、一部の国を除き、およそ半世紀の月日を待たねばならなかった。

独立運動
植民地化政策が活発に行われていた時期から、アルジェリアのアブド・アルカーディルの闘争やスーダンのマフディー派の闘争など、枚挙に暇が無いほどの抵抗運動が各地で行われたが、これらの抵抗運動は第二次世界大戦後は独立運動という形でさかんに叫ばれるようになった。

第二次世界大戦後まもなく、イギリスのマンチェスターで第5回パン・アフリカ会議が開催された。パン・アフリカ会議自体は戦間期より開催されていたが、これまでの会議が欧米のアフリカ系知識人主導であったのに対し、この会議ではアフリカ内部の民族運動家が加わり、パン・アフリカ主義が高揚した。とりわけ西アフリカでは、民族運動に直面したイギリス政府が、英領ゴールド・コーストなどで徐々にアフリカ人の権利拡大に応じていった。

アルジェリア戦争北アフリカでは、1951年のリビア独立(旧イタリア植民地)を皮切りに、1956年にはモロッコ、チュニジア(旧フランス植民地)が独立した。しかし、フランスによる植民地化が最も早かったアルジェリアでは、多くのフランス系白人(コロン)が独立に反対し、1954年よりアルジェリア戦争が勃発した。アルジェリア戦争に苦慮したフランス本国では第四共和政が支持を失ってゆき、アルジェリア駐留のフランス軍による反乱を背景としてド・ゴールを指導者とした第五共和政が成立した。ド・ゴールは、多大な費用を要する植民地帝国の維持より、産業発展や核開発を通じたフランスの威信回復を重視したため、サハラ以南における旧フランス植民地独立の流れが生み出された。

1957年、英領ゴールド・コーストがクワメ・エンクルマのもとでガーナとして独立を果たすと、アフリカの独立運動は勢いづいた。フランス植民地では、第五共和国政府が「フランス共同体」のもとでの大幅な自治を認めたため、「隷属の下での豊かさより、自由のもとでの貧困(Nous préférons la liberté dans la pauvreté à la richesse dans l’esclavage)」として1958年独立に踏み切ったギニア以外はフランス共同体にとどまった。しかし、結局は1960年にあいついで独立し、ベルギー植民地であったコンゴでも数ヶ月の準備期間しかないうちに独立が果たされた。こうして1960年には17カ国が独立を果たし「アフリカの年」とも称された。1963年にはエチオピアのアジスアベバでアフリカ統一機構(OAU)が発足した。

全てのアフリカ諸国が平和裏に独立を獲得できたわけではない。中にはアルジェリアやアンゴラ、モザンビークのように、武力によって独立を獲得した国もあった。また、植民地だけでなく、1990年のナミビア、1993年のエリトリアのようにアフリカ独立国の支配から開放された国もある[49]。

ヨーロッパ各国の植民地化政策を経た末の独立という経緯から、アフリカの大地はきわめて不自然な形で細分化され、その不自然な国境線のまま独立を余儀なくされた。このため、分断された民族や文化の異なる民族の国家的な統合という課題が各国に共通する緊急の題目として掲げられている。ザンビア共和国の初代大統領カウンダはこれらの現状に対し、「我々の目的は植民地主義者が作り上げた無様な加工品から真のネイション(近代的な民族国家)を創作することである」と述べている。

アフリカの各国は国内に多数の部族を内包しており、それらの状態で多党制を採った場合、深刻な部族対立を齎すという懸念から、一党制を導入する国が過半数であった。しかし、この制度は独裁色を強め経済分野に対する国家介入がすすんで行われる結果となる。民間企業の国有化や外国人の排斥の風潮が強まり、経済発展を阻害する形となった。経済の行き詰まりは政治や国家に対する不信感を生み、やがれそれらは地域紛争という実態を持つようになる。さらにアフリカ全土で発生した旱魃はこうした事態に拍車をかけ、深刻なダメージを与えた。紛争と旱魃などの自然災害による難民が爆発的に増え、彼らが他地域へ移動する事で緊張が高まり、別の紛争へ発展するという悪循環に陥るようになった。

冷戦が終結し、1990年代以降に入ると、アフリカ全土に大きな民主化の波が押し寄せる。アジア経済研究所が発行する『アフリカレポート』によれば、1989年に多党制を取っていた国はわずか7国[50]だったのに対し、1995年には39カ国[51]が多党制へと移行している。こうした政治的な変化は国家の存続に危機感を抱いた民意の反映に他ならない。しかし、先に述べたとおり、多数の民族集団を内包するアフリカの土壌において民主化の道はさらなる深刻な部族対立を齎す可能性を秘めている。アジア経済研究所の武内進一は、アフリカの急速な民主化に対し、制度変革に対応した柔軟なアフリカ社会の変革が必要であると警鐘を鳴らしている。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://tengumura.com/blog/mt-tb.cgi/3269

About

2009年02月09日 12:32に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「まんがタイムきらら」です。

次の投稿は「タイムボカン」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35